ハ ム 談 義  2


タイで生まれた次女(泰美) 

 この章でもアマチュア無線を楽しんでいての思い出を書きました。


1 国試にチャレンジしたK君
 
 一般の方は、「盲学校」と聞くと、全盲の生徒さんが通う学校と思われるかも知れませんが、実は、もちろん全盲の方もおられますが、「弱視」というめがねなどを使用しても、0.3以上に視力の上がらない方を約半分含んでいます。「弱視」と言っても、明暗の区別がつく程度の方から、視力はあるが視野が狭い、動く物が見えにくいなどいろいろな障害があります。私が、北海道札幌盲学校に勤務したとき、私の専門教科である中学生の「技術」を担当しました。盲学校経験のない私は、こんなに多くの生徒さんが「見える」ということに驚きました。
しかし、視覚障害教育に初経験の私は、この「技術」の指導でも多くの失敗をしました。ある時、秋葉原で通常価格4,000円、本日特価980円のデジタルテスターキットを購入してして、弱視の生徒さんに組み立てさせました。組み立ててみて気づいたのですが、プリント基板が私にも細かすぎる位でとても半田付けができる大きさではありません。また、私がサンプルとして組み上げたものを見せたのですが、もう一つ、どうも弱視の生徒さんには液晶の表示が見えにくいことも分かりました。大失敗でした。
 6石ラジオは、この失敗経験を生かして、大きなプリント基板のキットを選び大成功でした。少し大きめの板にセットして、スピーカーも取り付け、寄宿舎の自分の部屋で使えるようにしたところ、生徒さんはとても喜んでくれて、私も初めてラジオを作った時の事を思い出しました。
 そんな技術の勉強をしていたころ、K君が
 「先生みたいに無線やりたい。」との嬉しい申し出がありました。早速担任の先生にK君にJARDの養成課程の受講について相談してみましたが、24,000円の受講料は彼の家庭には負担できないだろうということでした。K君とも相談して、私が寄宿舎へ出かけて無線の勉強会を開くことにしました。1週3回6時間の計画で勉強が始まり、弱視のK君は、大きく拡大した拡大文字のテキストを使いました。勉強に加えて、2mを聞いてもらいSWLも始めてもらいました。3ヶ月ほど勉強会が続き、模擬テストではいい線まで実力が付いてきました。10月期の国試を受けましたが結果は残念なことに不合格となりました。丁度その国試の日は、私はJARLの理事会があり、同僚の学校職員にお願いして、引率してもらいました。なにをやるにも一人では出来ないものです。日曜日の引率にも関わらず、K君の受験に付き添ってくださった同僚に感謝、感謝でした。
 「もう少しだったんだから、今度は来年の4月の試験を受けよう。」と私が言うと、
 「頑張ります。」とK君は気落ちした様子もなく再挑戦を宣言しました。寄宿舎での勉強を続けていたのですが、なんと私は全く予想していなかった、たった1年での転勤が決まり、4月のK君の受験にはつき合えなくなってしまいました。結果的に札幌盲学校は在勤中は、一人もハムの資格を取らせることの出来ずの転勤となってしまいました。

K君にも免許を取らせたかった

2 投資してくれた父

 どこかにも書きましたが、私の父は教員で、ごく普通のサラリーマンでしたから、家計は決して豊かではありませんでした。しかし、父は私が小学生の時からよくラジオの部品を買ってくれました。私が中1の時にSONYがトランジスタラジオを発売しました。「初歩のラジオ」なども一斉にトランジスタを使ったラジオの製作記事を載せていました。私は、製作記事を食い入るように読んでいました。まだ見たこともない「トランジスター」とは一体どんなものだろうか、私は作ってみたくて仕方が有りませんでした。雑誌の後ろの通販のパーツの価格を参考にしてみると、イヤーホンで聞く4石スーパーが、合計でも約2万円かかります。父の月給と同じくらいだったと思います。ある時父は、
 「トランジスターラジオを作ってみたいんだろう?」とぼっそっと私に質問しました。私は、そんな高い物はとても買ってもらえないものと思っていましたので、全く思いがけない父の質問でした。私は、信じられない気持ちでしたが、父は、パーツを東京に注文してくれました。今の物価にすると、たぶん30万円くらいの投資だと思います。
 その4石ラジオは約1ヶ月かかって出来上がりました。今、その4石ラジオが100円ショップで売っているのには驚きです。あの100円のラジオと殆ど同じ回路構成です。
豆粒にようなトランジスタ、IFTコイル、ポリバリコン、AFトランス、とにかくこれまでみたどのパーツよりも小さいのです。私は、父に感謝しました。父は、退職後にアマチュア無線の免許を取り、JH8JKJで、3.5Mhzに良く出ていました。それほど豊かでない生活のなかで、私のラジオの製作やアマチュア無線の為に、たくさんの投資をしてくれた父にいつも感謝をしています。その父も平成5年この世を去りました。


3 南西沖地震と阪神淡路大震災での行政とハム仲間の動き

 奥尻に大津波に襲われたというニュースは、現地に丁度TV局が取材で入っていて、私達にも現場中継が入って来ました。暗かった事もあって、被害の全容は翌日まで分かりませんでした。時間の経過と共に被害の大きさに驚きました。すぐ現地のハムとの交信を期待しましたが、無線どころではなっかたようで、現地からのハムの電波を聞くことが出来たのはしばらくかかりました。
 JARL北海道地方本部では、被害の大きさから、奥尻島内の情報交換のためのレピーターの開設を考えましたが、受注生産のレピーターをすぐに手配するのは困難に思えました。そこで、前勤務校の北海道八雲養護学校のレピーターJR8WZの移設を計画しました。幸い八雲養護学校長から即答でOKが出ました。皆さんご承知の通りレピーターは10Wですが、移動しない局(通称固定局)ですから勝手に移動できません。JARLのレピーター委員会、北海道電監の許可が必要です。急いでもらっても移設には2ヶ月はかかります。(通常は、1年くらい)しかし、幸いにもこれも僅か1週間で解決しました。当時レピーター委員であるJA8IOT村井氏はじめ八雲クラブの皆さんが数台のハンディートランシーバーも持って奥尻入りをしてくれました。
 電波は、良く飛んで島内は勿論、渡島檜山管内にFBに飛んでくれました。早速、島内のアマチュア局が使用を開始しました。行政、JARL、地元アマチュア局のすばらしい連携であったと思います。その後、レピーターのすばらしさに、現地からも恒久的なレピーターの設置の希望があり、私は、JARL北海道地方本部として、北海道のアマチュア無線愛好家に呼びかけました。多くの皆さんの協力で約50万円が集まり、奥尻島にレピーターを設置することが出来たのです。
 阪神淡路大震災の時は、さすがに距離が離れていて、直接出かけて援助は出来ませんでした。それで、北海道地方本部の役員(本部長、監査長、会計監査、支部長)と評議員さんの責任で、とりあえずハンディートランシーバーの電池を贈ろうと、単三アルカリ電池5000千本を即納できるところを探しました。さすがに5000本は数が多すぎて即納出来るところはなかなか有りませんでした。幸い監査長のJA8EOM上田氏の取引先で在庫があるとの事で、しかも、格安で現地JARL関西地方本部に納入してくれたのです。その時は、とにかく早く届けたく、電池代の40万円は、とりあえず北海道地方本部役員で責任を持って払おうという事まで了解していただきました。その後すぐ新聞社にお願いして「電池を贈ろう」キャンペーンを張りました。これも、多くの方々から寄付金が届き、更に5000本の電池を追加して贈ることが出来ました。
 この事については、JARL関西地方本部長や兵庫県支部長さんから大変感謝されました。この電池は、情報ボランテアのアマチュア局100局のトランシーバーの電源として使われたのです。
 さて、現地で活躍したのはどんなアマチュア局だったのでしょうか。2ヶ月間現地で運用したJA3YRLはじめ多くの局のオペレーターは、JARL非会員であったそうです。50ほどあった県内のJARL登録クラブもそれほど活躍したという事は聞いていません。私の期待とはずいぶん違っていたのでした。(2002/04/09)
 

関連報道記事 1993/08/16 北海道新聞 
          1995/01/28 北海タイムス
          1995/09/14 北海道新聞
          1995/10/02 北海道新聞
          1995/10/06 電波タイムス
          1997/01/02 北海道新聞
          1997/01/12 北海道新聞
          2000/03/29 北海道新聞
          2000/05/26 北海道新聞


4 かついで運んだアンテナ支柱

 もうそう竹をみますと思い出すことがあります。JA8YIM太田小中学校アマチュア無線クラブの開局がせまった時、隣町のお店にたのんであった10mの長さのもうそう竹が入荷したとの電話が入りました。もちろんアンテナの支柱に使うためです。長すぎてお店の軽四では運べないとのことでした。
 「なんとか私の方で運びますよ。」と答えたものの隣町の大成町久遠のお店まで4里12kmもあります。
 「ようーし。かついではこぶぞ!」と決めた私は、早速校長先生に許可をもらいました。校長先生もかついで運んでくるというアイデアにはあきれていましたが、
 「気をつけてくれよ。」との注意がありました。車に気を付けるという意味もあるのですが、もう一つ太田と久遠の間は、落石が多くて以前タクシーに大きな岩が落ちてきて死者まで出ていたのです。同僚の車に無線クラブの中学生男子3名と私が載せてもらい、久遠のお店まで出かけました。
 「竹竿をとりにきました。」とお店に行き、みんなでかついで太田まで運ぶと告げると、お店のご主人もあきれ顔でしたが、私達は、早速10mの竹竿をかついで持ち帰りました。日頃車で走っていたときは、たいして遠いとは感じなかった太田への道のりも、歩けば結構大変なことがわかりました。生徒さんと
 「なんとかなる」とのんびり2本の竹を運びました。
 約3時間かけて、無事我々一行と竹竿は、夕闇せまる太田小中学校に到着しました。村の人達も、久遠からかついで来たと告げると、みんなあきれて、
 「ご苦労なこった。」と誉められたのか、あきれられたのかお言葉をいただきました。今、こんな事を生徒さんにさせると、父母から大変な抗議を受けたのではないかと思います。
 こんな経過で、無事2本の竹竿は、7Mhzのダイポ−ルの支柱として、体育館の上に収まったのです。もちろん、飛びは抜群でした。hi (2002/04/10)
  


5 懐かしのメカフィル

 昨日の事です。1週間ほど前に電話で相談を持ちかけた日立国際電気札幌支店の方が資料を持って説明に来てくださいました。私の企画は、視覚障害で、隣のクラスにいる友達のところまで出かけるのも大変な生徒さんのために、PHSを使った校内電話のシステムを構築したいという相談でした。なにせ視覚障害のハンデーを克服するという企画なので、既製品にはないいろいろな特化した機能を持たせるというSE泣かせの注文です。インターネットでの検索で、機能が豊富な日立国際電気さんに最初の相談を投げかけてみたのです。
 さて、朝に来て下さった同社のSE氏は、名刺を交換して会社の紹介をはじめました。、
 「旧国際電気と申しまして−−−」
 「あのう、メカフィルの国際電気さんですか?」
 「そうですか。メカフィルをご存じならハムですね。」と簡単に私の身元がばれてしまいました。昭和30年後半からSSB送信機やアマチュアの受信機に市場を独占していた、あのあこがれの「国際電気」だったのです。
 SE氏もハムであるということで、お互い通信システムについての共通理解があることがわかり、話しは短時間で終了してしまいました。早速校舎と寄宿舎を回り、設置するレピーターの数などをあたりをを付けることになりました。生徒、学校と寄宿舎の職員全員にPHSを持たせ、この3者が容易に情報交換をするという企画のために、生徒さんの障害の実体は是非ともSEさんにみていただきたいと思っていました。SE氏は、生徒さんにも良く目をやり、私の願いをよく理解してくださいました。いろいろな職場に隠れハムさんがいて、
「あなたもハムですか!」と嬉しい声をかけてくれます。これもハムの楽しみの一つでしょう。(2002/4/10)


6 TVIが出るって!!!

 バンコク日本人学校勤務時代のことです。中学生のAさんが、
 「先生、無線やっているでしょう。テレビに入るんですよ。」
 「そうか。どこに住んでるの?」
 「先生のアパートの4階です。」
 「え! 同じアパートか!」彼女は、私の住んでいるアパートの4階に住んでる、つまり、屋上のTA−33の真下、3〜4m位の距離しか離れていない部屋なのです。
 「そうか、今度テレビを見せてもらうよ。」と一応これで終わったのですが、話しはまだ続きます。その後1週間ほどした日曜日、私が輸入したFT−101をアメリカ人のハムに譲ることになりました。アメリカさんは、私の部屋へFT−101を引き取りに来て、なにやら5枚ほどもある書類を取り出し、日付を書き込みサインをしろというのです。英語に疎い私はなにが書いてあるのかさっぱり分かりません。4階のTVIの生徒さんのお父さんはいつも外人さんと流暢な英語で話していたのを思い出しました。私は、急いでTVIのお宅に出かけ、 
 「私の無線機を譲ろうと思ったら、なんか難しそうな書類にサインをしろと言っているのです。何を言っているのか書いてあるのか通訳していただけませんか。」とお願いして、お父さんを我が家へお連れしました。
 「ああ、これは、念書ですよ。盗品ではありませんとか、正規に輸入したものですとかを証明しますという念書なんです。アメリカさんに物を譲るときよく書かされますよ。」とのことで、私は納得してサインをしました。
 「ところで、お仕事はなにをされておられるのですか?」
 「タイの大學で、通信工学を教えています。日本の郵政省電気通信監理局からの派遣です。」
 「ヒエー、電監さんですか。!!!!」電監さんの家のTVにTVIが入っていることになります。
 この4階の住人さんは、私より1年先に帰国されましたが、なんと日本に帰ってからもばったりお会いしました。この方は、徳田修三さんと言う方で、帰国後北海道電気通信監理局長として、札幌に赴任されていたのでした。世界は、狭い!(2002/04/10)

タイで運用したHS1AHM 娘3歳(当時)後にJE8KUX バンコクのプロンチットロードのアパート   屋上のアンテナ

7 ネパールを愛する人

 私は、1984年1月初めて知人を頼ってカトマンズを訪問しました。それから20回ほどカトマンズを訪ねています。訪問の目的の所属する日本ユニセフハムクラブの活動のためですが、継続にはそれ以外の理由もあります。それは、ネパールのなにかが私達を引きつける魅力があるからにちがいありません。私は、山にはあまり興味がなく、よく皆さんから、
「折角ネパールに行って、カトマンズに留まっているなんて!」と笑われております。本当は、もったいない事をしているのでしょう。ネパールの魅力について考えてみると、私は、ネパール人の穏和な、そして思慮深い、そしてあたたかな人柄にひかれて、リピーターになっていると思います。私の交流しているネパール人は、殆どは大家族で、赤ちゃんから80歳のお年寄りまで、何組かの家族が一緒に生活しています。お年寄りは、英語も通じませんが、大歓迎をしてくれます。帰るときは必ずネパールの伝統的な方法で私の旅の安全を祈ってくれます。そんなお年寄りも、何回目かの訪問の時には他界されていて、悲しい思いをすることもあります。私は、ネパールを何度も訪ねる外国人は、きっとネパール人の魅力がリーピーターににさせる原因の一つではないかと思っています。
 そんな訳で、ネパールを通じてリピーターの日本人と友達になることがあります。その一人にJA8MWU阿部さんがおります。同じ北海道の人と言う共通点も理由の一つかも知れませんが、彼は私には出来ない事をやっています。私には出来ないをやっていることが、尊敬する理由になっています。阿部さんもはじめは、主なネパールの訪問目的は、アマチュア無線の為であったのかも知れません。しかし、彼は、彼の出来る範囲でいろいろなネパールの友達やネパールの人々のために尽くしているのです。私のようにグループではなく、たった一人で動いているのが彼の特徴でもあります。
 私も阿部さんのネパールでの活動を全部知っているわけではないのですが、知っている範囲を紹介します。阿部さんは、ご自分の出身の札幌の大學に毎年一人のネパールの学生を留学させているのです。これは、大學に阿部さんが交渉して取り付けた約束だそうですが、毎年1名のネパール人留学生を受け入れるというシステムを作り上げたのですから実に素晴らしい事です。私も何人かのネパールの青年から日本への留学の斡旋をたのまれたのですが、実は、日本への留学はとても難しいことです。まず、日本語の基礎を資格を取らなければなりません。カトマンズにも沢山の日本語学校がありますが、まだまだ、この基礎資格をとるまでの実力を付けられるまでにはなっていないようです。そうすると、日本に来てから日本語学校に通って、試験を受け、そして、日本の大學に入る基礎資格を得ることになります。殆どの留学生は、アルバイトをしながらこの日本語資格を取り、それから、大學にはいります。招待した側からみますと、大學に入るまで、入ってから、この二つの期間の身元保証をしなければなりません。一人の留学生の保証をするという事は実に大きな責任を持たせられるのです。その責任を阿部さんは何人にも背負い、ある時は経済的援助をし、ある時は法的な援助をしなければなりません。私にはとても出来ないことです。
 それから、阿部さんは、カトマンズに小さな会社を作っています。阿部さんの専門である写真や映画、映像関係の会社です。現地の方を社員にして、阿部さんが指導してこの会社は成り立っています。私の印象では、ネパールでは、仕事をしても、市場も狭く、とても採算が合わないのではないかと推察しています。よく倒産しないで(ごめんなさい)で、会社を存続させているのも感心しています。
 こんな阿部さんは、きっと「すごいやり手」と想像されるかもしれませんが、技術屋さんでとても外観や(?)短時間の印象からは、阿部さんの正体(?)は見破れないかもしれません。ネパールを愛する阿部さんは、私の愛する(?)一人です。

ネパールの留学生ジョシさんと(八雲養護学校)


 阿部さん連絡先  ja8mwu@jarl.com