生体肝移植38号の記録


皆様からご心配をいただきましたドナーの三女は、理解ある青年と出会い、結婚しました。
ご心配をおかけしました皆様にご報告申しあげます。

 生体肝移植植後40日目

平成12年11月20日
私の意識はどんどん薄らいで来ました
私と妻は先祖に祈りました
「明日まで生かして下さい!」
涙があふれるように流れました
私の体はあっという間に母の胎内に戻っていきました

平成12年12月12日
私は目覚ました
生きかえったのです
生きていたのです
私は、三女からもらった肝臓で生きかえったのです


平成14年11月29日、肝移植手術2年の記念すべき日にHP公開


原 恒夫 
〒065-0021 札幌市東区北21条東18丁目4−16
電話/FAX 011−784−8649
E−mail@joy.ocn.ne.jp

1 B型肝病歴
 昭和19年9月21日   樺太で生まれる
 昭和42年4月1日    北海道久遠郡大成町立太田小中学校奉職
 昭和47年4月1日    バンコク日本人学校政府派遣教員
 〜50年3月31日
 昭和50年4月1日    北海道檜山郡江差小学校に戻る
 昭和53年7月15日    海外青年協力隊受験し血液検査の結果オーストラリア抗原(B型肝)炎発見される
                 以後、通院するもGOT、GPT共に40〜60で特に手当をする必要無しとされる
 平成5年12月       緊張した事が起こると黒い便が混ざることがある
 平成7年8月        職場の検診で肝機能障害で精密検診受けるよう指示される
 平成7年8月        旭川市の病院で精密検診受診、食道静脈瘤発見される
 平成10年2月〜9月    風邪症状続く、軽い体を動かす仕事でも息切れがする
       9月15日    早朝トイレに行き意識を失う、八雲町総合病院内科緊急入院
                 約2ヶ月入院、退院後も引き続き強力ミノファーゲン注射を受ける
 平成10年12月25日    北海道医科大学付属病院内科検査入院、食道静脈瘤手当(硬化療法)
 〜平成11年1月
 平成11年7月25日    北海道医科大学付属病院内科検査入院、食道静脈瘤手当(硬化療法)
 〜8月25日
 平成11年12月25日    北海道医科大学付属病院内科検査入院、食道静脈瘤手当(硬化療法)
 〜平成12年1月 
 平成12年6月       腹水がたまりはじめ体重が10kg近く増える
       8月8日     北海道札幌医科大学付属病院内科検査入院、食道静脈瘤手当(硬化療法、結束療法)
 〜9月12日         GOT.GPT共に60前後少し高くなって来る、生活はこれまで通りで可との診断
 平成12年9月18日    意識障害出る(午前中の記憶が午後に無くなる)、八雲町総合病院内科緊急入院
       10月末     尿が出なくなる、利尿剤をいくら打っても出ない、肝臓につられ腎臓もやられる、意識がなくなって来る
       11月はじめ  タンパク質の点滴ほか治療が中止される、肝不全と腎不全で死の宣告を受ける、家族が移植の準備開始
       11月13日   北海道警察のヘリコプターで札幌の病院へ搬送される、24時間透析開始、腹水を出す、腸閉塞発生、食道静脈瘤治療(高周波で焼く)
       11月24日   移植施術を目的に北海道大学付属病院へ搬送
 平成12年11月28日
         〜29日    三女清美の肝臓を移植、北大の肝移植38人目
 平成12年12月14日   ICUから個室に移る
 平成12年12月20日   意識がほぼもどる、初めて口から水とオレンジジュースを数滴飲む、ベットから全く身動き出来ない
 平成13年1月20日    やっと自力でベットから起き車いすで病棟内を移動出来るようになる
 平成13年1月30日    歩行リハビリ開始、平行棒をつかまえ10mほど移動出来るようになる
 平成13年2月28日    退院、北大病院前の学生用ワンルームマンションを借り、妻と過ごす
                以後通院、服薬(プログラフ、ゼフィックス、バクタ)
 平成13年5月〜     札幌市内の教員アパートに移る、住宅探し開始
 平成13年10月30日   札幌市内の中古住宅購入、移転する      

 平成14年4月1日    札幌近郊の北海道立盲学校校長に復職
 

2 私がB型肝炎に?

  
 私は、三年間のタイのバンコク日本人学校勤務が終了して北海道の小学校にもどりました。そして、三年ほど過ぎた昭和53年秋に青年海外協力隊に応募しました。すでに子供も三女が生まれ三人となり、単身赴任の海外協力隊に参加するには不安もありましたが、今度は開発途上国の皆さんのためになにか役立ちたいという強い願いを妻も理解してくれたのです。1次試験は札幌であり、二2領域で受験できるとのことで、「日本語教員」「理科教員」で受けてみました。幸い2次試験の面接までこぎ着けられました。東京西早稲田のJAICA(国際協力事業団)には、沢山の若者が集まり、集団面接、個人面接、英語の面接、健康診断、制服の採寸などと進み、私の心はすっかり海外に飛んでいました。

 ちょうどこの派遣を心に決め受験の準備をしていたところ、北海道新聞のコラムに外務省経済局のS局長のインタビュー記事が掲載されました。北海道の出身というこの局長さんは、「北海道の青年の青年協力隊参加者が少ないのは残念」とあり、「北海道の青年が協力隊に応募するなら、不安なことなど相談にのります。」と呼びかけていました。

 実は、私も青年海外協力隊に応募するに当たって、心配なことがありました。北海道の教員としての身分を残して行きたい、無給でいいから籍だけ残したいという願いです。一応勤務先の校長からは、「北海道教育委員会に相談してみなさい。」とまで言って下さいました。
 さて、年休を取って、その北海道教育庁総務課法制制度担当というところまで出かけてみました。
 「実は、こういうことで相談にきました。」
 「あんた、なに言ってんだ。だいたい今日は、どんな身分で来たんだ?」
 「年休です。」
 「年休? あんた教員になるとき誓約書を書いたろう。仕事を一所懸命やるって誓約しただろう。今日は、勤務日だ。仕事はどうなってるんだ。」
 「−−−−」
 「職務専念義務違反だ!」
 「ところで、あんたどこの学校から来たの?」
 「檜山管内S小学校です。」
 「そうか。おれもS小学校卒業生だが−−−。」
  やっと私の話を聞いてくれることになったのですが、
 「海外青年協力隊?−−−前例がない。」
  この担当では、結論は「前例がない。」ということで、私の願いは実現しないようでした。もう一押ししてみることにして、以前日本人学校派遣でお世話になった研修係を訪ねてみました。研修係の人はやはり前例がないので、「小中学校課長に相談してみてはどうか」という話になりました。課長さんという方は係長さんより遙かに若い30代そこそこに見えました。ついたての向こう側にいるのですが、なにやら大きな声をあげて、書類の束を放り投げています。私のような平教員の話を聞いてくれるような雰囲気ではありません。さすがに係長さんは、めんどうな話なのでこの文部省派遣の課長さんに回したのかもしれません。この横柄な態度の課長さんは、めんどうくさそうに私の話を聞いてくれましたが、「青年海外協力隊派遣希望」と聞いて、態度は変わりました。
「そうか、北海道の教員も国の事業に参加したいのか。考えてみよう。」予想もしない展開となりました。
 その後、何度か研修係長さんを訪ねてみました。当てにしていた文部省派遣の課長さんは、何ヶ月もしないうちに本省に戻ってしまいいました。それでも、私の執拗な願いに、昭和53年夏に「休職で海外青年協力隊参加を認める方向で検討するから、試験を受けても良い」と内々の連絡を受けました。

 こうして昭和53年秋の海外青年協力隊の試験を受けるまでにこぎ着けました。三年間のタイでの政府派遣教員の経験、帰国してからの国際理解教育の実践、受験科目の日本語教員と理科教員は、二年近い時間があったおかげで勉強出来る時間が取れましたので、自信がありました。残していく家族の事だけが心配でした。
 北海道新聞で青年海外協力隊参加を呼びかけていた外務省経済局のS局長に「北海道の原と言います。この度、勤務先の理解を得られて協力隊を受験します。」と手紙を出してみました。すると、すぐ返事が届き、「上京の際は、寄るように」と書いてありました。幸い札幌での一次試験に合格、二次試験を東京で受けることになり、S局長を訪ねてみることにしました。外務省経済局長室には、秘書室があって秘書を通してのS局長との面会になりました。
 S局長は、道産子と言ってもさすが外務省で活躍されるだけあって、洗練された高級官僚のセンスが漂っていました。
 「どうして、協力隊に参加しようと思ったのかな?」
 「日本人学校勤務の時代は、あまり現地の人と交流出来なかったものですから−−−。」30分ほどの歓談で、
 「試験をがんばってきなさい。」と激励をいただき局長室を出ました。外務省を訪ねたのは日本人学校の派遣の際、ほんの数年前のことでした。当時の福田外務大臣名の辞令の交付を受け、シャンデリアのある部屋での壮行会が開かれました。いよいよ日本を離れるのだという自分でも信じられない現実を実感していたのでした。
 
 協力隊の二次試験は、予想よりも簡単で、派遣の意志確認のために行われているようでした。もう制服の採寸まで行われました。健康診断では、日赤病院が担当しており、当時としてはあまり普及していなかった血液検査も行われました。

 そして、待ちに待っていた合格発表の日がやって来ました。午後一時、予定のとおり合否の電報が配達されました。
 「アナタハ、コンカイノセンコウデハ フゴウカクトナリマシタ」コクサイキョウリョク ジギョウダン
 私には信じられない電文が印字されていました。急に目の前が真っ暗になり、目を覚ました時には六時間も過ぎていました。家内の話では、死んだように寝ていたとの事でした。私は、どうしても不合格が信じがたく、その理由を外務省のS局長に調べて頂くようお願いしました。すると数日して、S部長からの手紙が届きました。
 「原さん、残念だが君は、血液検査の結果オーストラリア抗原に犯されている。前回の海外勤務での感染だと思う。青年海外協力隊員で派遣先での死亡原因の多くがオーストラリア抗原による肝臓障害だ。だから、君は二度と海外派遣は無理だ。開発途上国の援助は国内からも出来る。国内での活動を考えてみなさい。私も応援するから−−−。」 S局長の優しい励ましの手紙でしたが、「オーストラリア抗原」なるものがいったいなになのかという知識もありませんでした。

 私は、すぐ町立病院を訪ね診断を受けました。
 「GOT.GPTも40程度と正常の範囲だから、今は特に治療の必要があません。ただ、感染から20年後位に肝臓障害が起こると言われいます。」
 感染源として、思い当たることは、タイに派遣されていた時代に毎年数回破傷風はじめ各種の予防接種を受けていたことでした。ある時は、日本人医師のいる病院で、ある時は警察病院だったり、なんの不安もなく市民と一緒に予防接種を受けていたのでした。日本人医師のいる病院だって、注射針は回し打ちで注射針が切れなくなるまで使っていたようでした。
 
 これが私の「オーストラリア抗原」現在「B型肝炎」と呼ばれているウイルスとの付き合いの始まりだったのです。

3 取り返しのつかない反省

 早朝二階の寝室からトイレへ立ちました。トイレから出てドアを閉めようとしたとたんに意識を失いました。二月ころから風邪症状が続き、町医者に行ったところやはり「風邪」と診断され、風邪薬を飲んでいましたが一向に良くなりません。そのうちに人事異動が発表され、以前勤務していた北海道八雲養護学校へ配属となりました。引っ越し荷物づくり、送別会、転勤と三月中旬から多忙を極めました。引っ越してきた住宅の荷物をかたづけましたが、息切れがして二階に荷物を運び上げられない状態になり体調の異常に気づきました。
 「体調がおかしい。」と感じるようになり、近くの医者に診てもらいました。血液検査の結果は、肝機能の数値も正常内であるとのことでした。八雲養護学校はそんなに大きな学校ではないのですが、平屋の校内一回りするとほんの200m位にしかなりませんが、疲れを感じました。

 トイレの前に倒れた私は、不吉な予感に起きてきた妻に支えられて、何分もしないうちに意識を回復しました。すぐ妻の運転で八雲町総合病院に運ばれました。医師は食道静脈留出血を疑い、内視鏡検査に入りました。後で分かったのですが、内視鏡のレンズやチュ−ブには、いろいろな太さやサイズがあるようで、この時の設備は、太く大きかったように思います。きっと数分の検査だったと思いますが苦しくて苦しくて検査にあたった女医さんに早く内視鏡を抜くよう女医さんの体を強打したとの事です。本当にこの時は苦しかったのです。
 検査の結果は、今は出血はしていないものの食道静脈留がはっきりとカメラはとらえていました。実は、二つ前の職場の時、平成7年8月旭川の病院で胃カメラを飲んだ時、カメラを操作していた医師が、カメラを食道に入れたとたんに、
「この人は肝臓障害だ。静脈留が見える。」と言ったのです。その後の診断で医師は、
「命に関わります。手当をしなければ」と注意してくれたのですが、私は、教頭職を努めボランテア活動を毎週の土日にやり、北海道内、本州各地はおろか発展途上国にも年間二回は出かけていました。体は、快調でその医師の言葉を信じる事が出きなかったのです。苦しい内視鏡検査の中で、旭川の医師の言葉を思い出していました。

 幸い、その後は黒い便や下血はないものの強度の貧血状態にあるとの診断でした。念のため腸の内視鏡検査もする事になり、病室から検査室に行きました。準備室には、数名の患者が待っており、看護婦さんより下剤の入った2リットルの水を飲むようにとの指示がありました。患者の一人が以前のこの病院で腸の内視鏡検査を受けたことがあり、
「苦しいの何のって、大変な思いをしたよ。」という経験談に、私を含め、残りの患者は青くなって、2リットルの水を飲んでいました。順番に検査が進みましたが、終わった患者は、準備室に戻って来ないので、その様子は聞けないまま検査室に入りました。紙の下着を付けさせられ、検査が始まりました。
「入れます。」と医師の声で、内視鏡が肛門から入れられましたが、多少ごそごそという感じがしましたが、全く痛くも苦しくもありません。あの苦しかった胃カメラを予想していた私は拍子抜けがしました。これは個人差なのか、さっきの患者さんがオーバーに言って脅かしたのか私には分かりません。同じように札幌医大でも腸の内視鏡検査は,苦しいものではありませんでした。いずれの病院でも腸からの出血は発見できませんでした。
 
 この時の入院の治療は、毎日の強力ミノファーゲンの注射、造血剤や栄養剤の点滴、数日おきのタンパク質の点滴でした。みるみる私の健康状態は回復し、約一ヶ月の入院で退院出来ました。退院後は、通院し強力ミノファーゲンの注射を受けるよう医師の指示が出ました。入院中は、毎日教頭さんや事務長さんが見舞いに来て、学校の様子を話して下さいました。本当にありがたいことでした。幸い病室に電話回線があり、これを使ってインターネットで肝機能障害に関するホームページをみて、知識を得ました。肝移植経験者のページもあり、まさか自分が一年ほど後に移植手術を受けることになるとは予想もしていませんでした。このころまだ病院ではパソコンの持ち込みを想定しておらず、総婦長さんにお願いして「特別許可」ということで持ち込み許可をいただきました。

関連サイト 食道静脈瘤に関するサイト
        胃カメラに関するサイト

4 3.3平方メートルの自由空間

(1)札幌医大での治療
 この入院を機に妻や親戚は、私の病気に対しての不安を強くしました。そして大きな病院での診察を強く進めました。私も自分の健康状態に自信がなくなりました。八雲の病院の主治医に家族や親戚が心配しているので札幌医大での検査を受けたいと申し出ました。治療はいままでどおり八雲の病院にお世話になりたいと申し出たところ主治医の同意をいただきました。

 札幌医大に予約無しで受診したところ、初診は第二内科の教授がみてくれました。そして、胃カメラの予約が出来、予定の日に検査を受けました。胃カメラは八雲の病院でとても苦しかった経験があったのですが、ここはそれほどでもなかったように思います。物差しを当てて測った訳でないので、正確ではありませんが、どうも八雲の胃カメラに比べ小型で、チュ−ブも細く感じました。
 余談ですが、この胃カメラの消毒は病院によってちがい、カメラから色々な病気に感染するというのです。消毒液に所定の時間浸けて殺菌するとの事ですが、病院によってえらく管理が違うとのことですが本当でしょうか。

 やはり食道静脈瘤があり、すぐ治療を勧められました。いつパンクするか分からない静脈瘤に不安のあった私は、その場で入院を予約しました。入院は、学校が冬休みに入ってすぐの12月22日からで、妻と共に朝一番の寝台列車に乗り札幌医大に着きました。入院する数日前からまた体の不調が始まりました。
「ひょっとするとしばらく帰ってこられないかもしれない。」そんな不安がよぎりました。

 札幌医大では、「硬化療法」で治療をすることになりました。冬休みの間に三回は治療したいという計画で、私の食道静脈留への治療が始まりました。内視鏡を使っての治療は、レントゲンのモニターをみながら静脈留に硬化剤を注入していくというのです。一回目の治療が始まりました。
「また苦しい胃カメラを飲むのか」と覚悟をして手術室にはいりました。レントゲンのモニターが何台もあり、コンピユータのファンか部屋の換気のためのファンなのか騒音が響いています。
「治療をする医師の○○です。」
「同じく医師の○○です。」
「レントゲン技師の○○です。」
「看護婦の○○です。」
 皆さんが自己紹介されましたので、私も、「患者の原です。」というのがいいのかとも思いましたが、なんかへんなようで、
「よろしくお願いします。」と挨拶を返しました。
 胃カメラの先端からは、青白いまぶしい光が輝いています。まず、のどの麻酔シロップ、局部麻酔の注射、次々に準備は進んでいきます。
 「はい、麻酔を入れます。」と医師の一人が点滴のチューブに麻酔薬を注射器で送り込んだようです。ほんの数秒もしないうちに私の意識はなくなりました。
 
 私が病室のベットの上で気がついたのは、数時間後の夕方になっていました。長い時間目覚めない私に妻は心配したとの事でした。頭が麻酔のためにボーッとしているのを除いて、痛みもなく妻から治療は終わったと聞いても半信半疑でした。今回の治療では、気管に水が入りずいぶんむせて治療に時間がかかったとの事でした。一時間半も胃カメラが入っていたとの事で、もし麻酔なしだったら大変な苦しさだったと思いました。

 食事は、食道の治療の後ですから一週間かけて普通食に戻りました。
 当日、1日目 絶食、水はほんの少しだけ飲んでも良いようでした
 2日目 朝、昼、夕食ともにおもゆ
 3日目 おもゆにお米が何個か発見できました
 4日目 おもゆにお米が少し増えました
 5日目 もうおかゆと呼べるほどお米が増えました。おかずも白身魚などがつくようになりました。
 6日目以降  おかゆです。おかずはもう普段と変わらなくなりました。

 札幌医大入院1日目に、医師より点滴の準備をするので、処置室に来るようにとの指示がありました。すぐ出かけると、腕の静脈に点滴をすると、動いたり、手で触ったりしてして傷口が広がったり、感染症の細菌が入ったりする恐れがあるので、鎖骨の静脈から点滴するとの説明でした。局部麻酔のあとプラスチックの針が埋め込まれました。そして、その針の向きが正しく入ったかレントゲンをとりました。私は、この時初めてプラスチックがレントゲンに写る事がわかりました。骨が写るのですから、プラスチックも写るのでしょう。この針は1〜2ヶ月間もつとの事でした。この処置のお陰で、その後マスキングをするだけで、シャワーや風呂に入れたのは大変ありがたかったのです。

 関連サイト  食道静脈瘤の治療


(2)病院で迎えたクリスマスと正月

 病院の生活は、時間の経つのが早く感じます。例年の今頃は、開発途上国にボランテア活動に出かけている頃ですが、今は治療に専念しなければなりません。12月24日、クリスマスイブがやって来ました。
 札幌医大のクリスマスイブは、先生方がサンタクロースやトナカイのゆいぐるみを来て、患者にプレゼント配って歩くというものでした。企画は、いいのですが、ぬいぐるみを着せられて汗をかいている先生方には大変申し訳ない事です。看護婦さんからの激励のメッセ−ジも届きました。
 「やっぱり医師もサービス業なのかな。」と妙に私は感心してしまいました。
 クリスマスを過ぎると、同室の患者さんは、一時帰宅が認められ帰省する人が多くなりました。私の場合は、万一の食道静脈瘤からの出血の心配があり、札幌市内での外泊ならOKとなりました。折角外泊の許可が出たので、大晦日だけ市内のホテルに泊まることことに決めました。家内と大晦日のホテルに泊まるなど結婚して30年なっかたことです。それどころか私は、この15年くらい年末年始に家にいたことがなかったのです。
 札幌駅前のホテルにつく前に近くのパソコンショップを覗きました。まだ入院して10日ほどしか経っていないのに、何年ぶりかで街を散策したようで、健康のありがたさをつくづく感じました。ほんの30分ほどで散策をやめホテルに入りました。
 夕食は、娘と約束していたボーイフレンドとの会食でした。娘とボーイフレンドがホテルまで車で迎えに来てくれました。大晦日の夜に開けているレストランなどあるかと心配していましたが、居酒屋があいていました。妙に緊張したボーイフレンドは、口数も少なく、私や妻が訪ねたことをぼそぼそと答えるというものでした。
「きっと昔、妻の家を訪ねた時、私もこんなもんだったのかな。」と自問しました。30歳も年の違う若者と60歳に近い夫婦では、今いる環境も考え方も全く異なっています。共通の話題などほとんど無いのでしょう。居酒屋で夕食、ウーロン茶、たいした大晦日にはなりませんでしたが、「娑婆」の空気を吸えた事で私は満足出来ました。病院のカーテン一枚、約一坪の生活空間から、ホテルの10坪ほど、約10倍の面積がなんともゆったりして、これが「あずましい!」という表現がぴったりなのでしょう。21時の消灯もなく、10年以上も観たことのなっかった「紅白歌合戦」を終わるまで観て、久しぶりに日本で大晦日を満喫したのです。
 
 元旦は、ホテルのバイキング形式のお正月料理です。
「大晦日にビジネスホテルに泊まっている人なんていないだろう。」と昨夜妻と話していたのですが、なんと結構な人たちが朝食に来ているではありませんか。私は、妻に、
「おい、こんなに年末年始に仕事をしている人がいるのか−−−。」と感心して話しかけました。もちろん妻も年末年始のホテル泊は初めてのことで、人の多いのに感心していました。雑煮ほか正月料理も結構ありバイキングとはいえ楽しめる料理が並んでいました。札幌駅北口のホテルクレストさんありがとうございました。

 午後には、現実の世界である札幌医大の病室に向かいました。さすがに正月、私の六人部屋の皆さんは外泊して誰もおりません。
「早く帰り過ぎて職員さんに迷惑をかけたかな?」と思うほど、第二内科の病室は、各室共にがらんとしていました。妻も八雲に戻って行き、大きな部屋にたった一人で過ごすのも寂しいものです。私は、二回目、三回目の食道静脈瘤の治療を受けるのです。

 正月も終わりかけた1月10日、私の二回目の治療が行われる事になりました。医師の話では、私は麻酔が効きすぎるようなので、今度は麻酔を軽くかけるとのことです。私は、八雲での胃カメラの検査の苦しさを思い出し、
「先生、ちゃんと麻酔をかけて下さいよ!」と主治医をはじめ担当の研修医、看護婦さんにもお願いをしました。先生方の返事は、
「分かりました。」と言ってくれたのですが、これは全くのリップサービスでした。一回目の気管へ水が入ったのは、麻酔の効きすぎが関係したようで、二回目の治療では、ほとんど麻酔を効かせていないではありませんか。私は、のどに内視鏡が入っているものでから、「苦しい!」とも伝える事が出来ないのです。もちろん脂汗をにじませている私を観て、医師団は私の苦しさを理解しているのでしょうが、麻酔は追加されることなく食道静脈瘤の治療は続けられました。
 「もうすぐ終わりますよ!」看護婦さんのそんな言葉も三回位聞いたように思います。
 「はい、終わります。抜きますよ!」という医師の声のうれしかったこと、そして、静かに内視鏡が抜かれて行くとき体中から力が抜けていくように思いました。やはり今回も一時間半ほど内視鏡をのんでいたのです。治療中の体力の消耗は大変なものだと思いました。手術台から降りるときもふらふらでとても自力で立てなくなっていました。3回目の内視鏡での治療も決まっていましたが、当日の朝の体温が37度8分ほどあるため中止になりました。私が、
先生、やってくだい。」と申し出ましたが、医師団は慎重でやはり体調の良いときに治療した方が良いという結論でした。私は、自分の職場の人事協議が本格化する次期にきたため、今回は退院することにしました。

 
(3)3回目の治療

 三回目の食道静脈瘤の治療を札幌医大に予約していました。入院の調整をされているのは科の総婦長さんだそうでう。平成11年7月のある日、職場に婦長さんから電話がかかってきました。
「8月10日に入院して下さい。」との事です。三回目の入院とあって、覚悟も決まっていました。私の希望のとおり夏期休業中の入院として下さいました。「夏休み」と言っても生徒さんは休みですが、私たち教職員は勤務日ですから、土日の休みを除いて傷病休暇や年休を取らなければなりません。また身辺の片付けをして、入院準備に取りかかりました。

 8月ということで、妻の運転する車で病院へ送ってもらいました。いつものように妻は心配しています。札幌医大のありがたいところは、入院患者用の駐車場が用意されていることです。三回目ともなるとさすがに顔が知れたのか、看護婦さんや清掃の職員さんも名前を覚えていてくれました。主治医の先生もすぐ来てくれて、新しい研修医の紹介もありました。札幌医大は、三ヶ月毎に研修医さんの科を変えているとのことで、新しい研修医が付いてくれることになりました。また、一週間に一度「教授回診」があり、担当の教授が、科内の医師や研修医を連れて病室を回ります。一人の患者にほんの三分程度ですが、主治医が最近の病状、データーを報告したり、教授が患者から直接体調などを聞きます。そして、教授が主治医に治療の指示を与えていきます。これは良いシステムだと思います。教授の経験から的確な治療の指示を出し、また、1週間後に経過を確認しているのです。学校にこのシステムを導入すると成果が期待できそうです。ただ教育の現場ではなかなかこのシステムを導入しづらい部分があります。教員は、「鍋ぶたの社会」と言って、教員すべてが平等という意識が強く、たとえ校長と言えども学級経営や教科経営には、あまり口を出さないとういうのが根底にあります。

 さて、研修医さんですが、これがまた注射や点滴の針を刺すのが、超ヘタで、痛いのです。腕の静脈へ針を五回も六回も刺しても成功しないのですが、患者の皆さんはじっと我慢をしています。もちろん研修医さんが早くカンをつかんで、うまくなって頂きたいという願いからなのでしょう。さて、ある時、担当の研修医さんが私の腕に点滴の針をつける事になりました。私の不安は的中して何回研修医さんががんばってもうまく血管にプラスチックの針は収まりません。血管を探すためにグリグリ回すものですから痛いの痛くないのって大変なものでした。研修医さんはあきらめてベテランの看護婦さんを連れて来ました。するとどうでしょう。ほとんど血管の見えない私の腕を軽くさわり、さっと針を刺すとなんと一発で成功ではありませんか。これが一年生と30年生の差なのでしょう。私の職業の教師の世界にもにも経験によってこんなに差があるのかもしれません。

 今回は、一回の治療で終わりました。これまでの硬化療法に加えて、輪ゴムで静脈瘤を止める結束治療も行ったとの事です。今回が内視鏡を使った四回目の治療でしたが、私は、二回目の軽い麻酔の際の苦しみを思い出して、再三医師団に麻酔をかけてほしいと懇願しました。今回はかなり深く麻酔がかかったようで、意識は残りましたが、そんなに苦しくはありませんでした。麻酔の関係もあるかもしれませんが、胃カメラをのむ「コツ」のようなものを少しずつ会得したのかもしれません。もう胃カメラを飲んで、十回以上になるのですから。コツは、とにかく体の力を抜く事です。これが言うは易しでなかか出来ないのです。麻酔をかけてもらうのが一番でしょう。お医者さんの話では、麻酔の副作用はそれほどないとのことでした。

 入院生活にも慣れ、同室の患者の皆さんとのおしゃべりも楽しいものです。本当に後々ためになったのが隣のベットの患者さんからの指摘でした。
「原さん、特定疾患の指定を受けた?」
「え! なんの事ですか?」
「もう原さんならきっと肝臓病で特定疾患の指定を受けられるよ。指定を受けるといろんな医療補助の対象になるんだから。」
医療制度に全く知識がなかった私に隣のベットの人が教えてくれたのです。これで四回目の入院となりましたが、そのたびに50万円程度の医療費を払っていました。その後、ほとんどの医療費は入っている共済組合から戻っては来ていましたが、やはり相当の負担になっていました。早速医師に相談すると、
「そうかまだ手続きしていなかったのか。」と言って診断書を書いて下さいました。もう何回も入院しているので当然手続きをしていると思っていたのでしょう。
 この治療を終えて、早速地元の保健所で手続きをしました。これが後になって絶大な威力を発揮したのです。移植手術そのものはドナ−もレシピエントも保険の対象外です。しかし、特定疾患の指定を受けていると退院後の通院、投薬、移植後の感染防止のための歯科通院、これが、ほとんど一回1、000円位になるのです。現在、通院は一ヶ月に一〜二回で、そのたびに血液検査を受けます。投薬も一ヶ月十万円以上の薬をもらっています。二ヶ月に一回の割合でする点滴は、実に一回25万円もするのです。これがほとんど1,000円以下になるのです。入院も月額14,000円で済むというのには驚いてしまいました。

 9月13日、一応食道静脈瘤の治療を終わり、12月の再治療を予約して札幌医大病院を退院しました。


関連サイト 難病センタ− URL http://www.nanbyou.or.jp/

5 午前中になにがあったの?

 食道静脈瘤の治療を受けていて、札幌医大の退院の数日前、私は、足の訓練のため一階から入院病室の七階まで階段を使って歩いてみました。入院中は同じ階を洗面やトイレなどに行く程度で運動不足が心配されたからです。一階から階段を上ってみるとどうも体が重く、前の退院の時と体調が違うように感じました。まさしく退院してほんの数日で思わぬ障害が発生したのです。
 私の職場では、臨時職員を採用することになりました。それで、面接をすることになり、午前十時に臨時職員を希望する方と面接をしたのです。
「今日の午前中に面接された方いかがでしたか?」事務長さんに面接の結果を聞かれて、私は、答えに困ってしまいました。私は、確かに午前中にどなたかと会ったような気もするのですが、会った方が女性なのか男性なのかも思い出せないのです。私は、慌てて人事調書のファイルを開いてみました。女性の履歴書には写真も貼ってありました。確かに私の字で、面接の所見も記入してあります。しかし、私には、この女性と会った記憶が全くないのです。これが数年前とかではなく、ほんの三時間前のことなのです。
 この時、私は以前にホームページでみた肝移植患者の手記を思い出しました。
「肝機能障害の最後は、意識障害がきます。」確かにそう書いてありました。私は、肝臓障害の末期の状態になっていることを直感しました。
「今日は、主治医の先生は、休みのはず。」そう思いましたが、八雲総合病院の外来に駆けつけました。外来で、内科の先生に私の症状を伝えると、
「すぐ入院です。」やはり、入院することになりました。札幌医大病院を退院して、わずか五日目の事です。

 すぐに八雲総合病院の内科のICUに入院となりました。入院して数日は、意識が薄らぎ、このまま死んでしまうのかという不安が脳裏をかすめました。ICUには主に老人が入院しており、うめき声と呼吸器はじめ各種の医療機器の音が絶え間なく響いていました。また、付き添いの方の話し声などが遅い時間まで続き安眠出来るような状況ではありませんでした。
 幸いにも個室が空いたとの事で、移らせてもらいました。

 平成12年10月末、八雲総合病院に入院していた私は、ついに死の宣告を受けました。私に直接医師からの告知はありませんでしたが、私自身の病状から死を予知できました。尿が全く出なくなりました。
「姿勢が悪いから尿がでないのかな。」私は、尿器を持ってベットの横に立って小用をたそうとしました。しかし、一滴二滴落ちるだけではありませんか。ほんの数日前まで利尿剤を注射すると30分もしないうちに出た小水も出なくなったのです。なにか背中が生ぬるいように感じて、毛布をはずしてみるとシーツが真っ赤ではありませんか。点滴の針の近くから血が流れ出いて止まらなくなっていたのです。手足のあちこち、いえもう全身の皮膚がまるで点滴の薬がもれたようにぶす色になっていました。死斑が体中に出来ているのです。もう死期は寸前に迫っている、この事実はだれも否定できないでしょう。

 昨日まで付けられていた点滴もはずされました。タンパク質の投与も栄養剤の投与も終わりました。

 「そうだ、明日は、高等部の初めての東京への修学旅行だ。生徒さんと一緒に行けないお詫びを書かなくては。」しかし、鉛筆を持った手には力が入らなくて字も書けません。
「ねえ。おれはもう字も書けないんだ。代筆してくれないか。」妻は、無理をして元気そうに、
「わかったわ。さあ書くわよ!」と言ってくれました。
「高等部の皆さん、おめでとう!。」
「君たちが八雲養護学校初めての」
「飛行機に乗って東京にいくんだ。」
「実現のために長い年月がかかったね。」
「みんなの長い長い夢が実現するんだ。おめでとう!・
 私の目には一節ごとに涙があふれました。たった何行かの生徒さんへの手紙に泣き虫の私は、30分以上もかかったのです。
「団長の私がいけなくてごめんなさい。」
「元気で八雲に帰って来て下さい。」
 書き終わって、私は、泣き崩れてしまいました。妻は、気丈夫に黙って背中をさすってくれていました。

 私は、養護学校の教員として、難病に苦しむ生徒さんを励まし続けてきました。半日、一日、そして一泊二日とこの15年ほどの間に、生徒さんの修学旅行の日程が延長されてきました。これは、医療の進歩もありますが、病院の医師と看護婦の付き添いなど生徒さんの入院している国立療養所八雲病院の職員の皆さんの協力のお陰でした。高等部の生徒さんから何年も前から、
「東京に行きたい!」という要望が出ていました。しかし、飛行機内の気圧が低いためや小型の人工呼吸器がなっかたなどの課題が解決できないため、東京行きは長年実行出来なかったのです。

 平成12年10月17日、八雲養護学校の高等部の東京行きが実行出来ることになったのですが、なんと引率団長の私は生徒さんと一緒に行けない状態になっているのです。私の涙はいつまでも止まりませんでした。

 私を心配しながら妻は生徒さんの手紙を持ち帰りました。もう病棟は静まりかえって、患者の皆さんは寝静まったようです。私は、ふらふらと窓辺に近寄り窓を開けました。4階の窓から、街の明かりがみえています。月の光に照らされて、眼下には池の水が光っていました。フーと私は、このまま飛び降りたい、飛び降りたらどんなに楽になるだろうと考えました。そんな思いが脳裏をちらついた時、私は現実の世界から幻覚の世界へとワープしていました。子供の頃からの学生時代のこと、教員になってからのこと、妻と明日日本に帰国する最後の晩餐をバンコクのズシットタニーホテルでとっているところまでがほんの数秒の間にビデオの早送りのように思い出されました。ズシットタニーホテルホテルの夜景は街を飾るイリミネーションが近くに遠くに光っていました。流れる川のように車のヘッドライトがつながっていました。
「原さん!」私は、見回りに来た看護婦さんの声に現実に引き戻れました。看護婦さんの声がなかったら、私は、思い出のズシットタニーホテルから眼下の光の海に飛び込んでいたかもしれません。

 私の意識は一層薄れてきました。

 長女が見舞いに来たようでした。そして、私は、札幌の病院へ搬送のため移動ベットに移されたようでした。きっとすごい騒音だったと思いますが、ヘリコプターの中での事は全く記憶がありません。ヘリコプターで搬送をほんの20分ほど前に知らされた妻は、バック一つに荷物をまとめ特急列車で、札幌まで私を追いかけました。

 私が意識を失いはじめた頃、妻や娘は生体肝移植の道を模索していました。もう肝臓の移植しか私の命を助ける事が出来ないという情報を何人かの医療関係者から得ていた妻と娘達は、北海道で唯一肝臓移植手術を行っている北海道大学医学部第一内科藤堂教授と連絡を取り始めていました。そして、北大病院では手術の可能性について、患者である私を診断に来ていたとの事でした。ありがたいことに喘息持ちの長女を除き妻も次女も三女も肝臓提供を申し出てくれていたのでした。

 札幌の病院に着いた私は、ICUで延命の治療が行われました。後で聞いた話では、もうこれ以上の延命治療はないという最高の治療が続けられたとの事です。しかし私の意識は一層混濁して幻覚や幻聴が続き、現実が全く分らなくなりました。私は、幻覚の中で北朝鮮にいました。北朝鮮から招待を受けた私は小さな村々を見せてもらいました。ある村はお祭りでした。とある学校に寄りました。その学校は、大学か専門学校のようで、科学の実習を見学しました。ある教室の前で、半分開けた扉の向こうからモールス符号が聞こえてきました。軍事訓練のようで、かなり早いモール符号が飛び交っていました。私は、長年アマチュア無線をやっていたのでモールスコードは分かりました。電文の中に「TOKYO IS FINE」と天気の報告があったようでした。私は、ガイドに、
「東京の天気は晴れているようですね。」と言いますと、ガイドの顔が急に険しくなりました。そのまま私は拉致され、ベットに縛り付けられてしましました。
「私は、北海道の原と言います。決してスパイではありません。」大声を出して助けを呼んでいました。するとベットの横にあった鶴の置物のくちばしから白い煙がもくもくと上がりはじめました。
「青酸ガスだ! 助けてくれ!」私は、叫んでいました。これは、札幌の病院のICUだったのです。モクモクと上がった煙は、実は私の口やのどをしめらせるための加湿器の白い霧だったのです。

 腸閉塞が三カ所起こったとの事で、移植手術は絶望的になった時のことです。私は突然便意を感じて背中まで汚れるような大量の便が出ました。今までの苦しさが嘘のように便が出て、腸が開通したのです。看護婦さん達には申し訳ないのですが、紙おむつをはみ出すような大量の便が出たのです。何枚ものぬれタオルで体を拭いて、おしめや下着、シーツを取り替えました。看護婦さん三〜四人が私の下着の着せ替えをするものですから、私の体を大きく動かします。すると体を動かされたわけですから腸も動くのです。また、数分経つと便意をもよおすのです。まったく看護婦さん達には気の毒ですが、また大量の便が出ます。しかし、私にとっては、腸閉塞が直ったのは奇跡が起こったと言ってよいでしょう。

 腹水もずいぶんたまっていました。腹部に穴を開け、腹水を出したのですが、数リットルも出たそうです。

 私の幻覚は一層激しくなって来ました。私は、もう本当にだめだと思いました。ほんの10分だけ面会を許された妻の顔がぼやけて見えました。
 「お願いだ。明日まで命があるよう先祖に祈ってくれないか。」私は、妻の手を取って一緒に手を合わせました。
 「ご先祖様、どうかあと一日生かして下さい。」無信心の私は、仏様にお願いしても私の命乞いは聞いてもらえないと思いました。だから先祖に助けを求めたのです。自分の今の病状から、たぶん今夜で私の命の火は消されるだろうと感じました。だから、せめてもう一日だけ生かし続けてもらいたいという願いでした。1日以上は、とても体の状況からみて無理だろうと思えました。

 祈り終わった瞬間、私の体は、真っ赤な母の胎内に入って行きました。そして、祖母の、そのまた祖母の何台もの母親の胎内を通り抜けました。突然明るい広間に出ました。そこには、立派な仏壇がありました。仏壇の中なのか後ろなのかはっきりしませんが、声が聞こえてきました。
 「私は、天空を支配するものです。あなたの願いは聞いておきましょう。」そこで、私は意識を失いました。その後何が起こったのか全く分からなくなりました。

6 ありがとう!

 (1) 甦った命
 私が気づいたのは、どこか場所の分からない病院のベットの上でした。私の体には、何本もの点滴のパイプがつながり、周りには、点滴の機械や医療機器が視野一面にありました。どうしてもここがどこか分かりません。ブルーの制服を着た医師や看護婦が忙しそうに行き来しています。どの人の顔をみてもインド人のように小麦色の肌をしているのです。室内は、点滴のアラームやいろいろな医療機器の音が響いています。どうしてもここの場所が分かりません。
 
 私を三人の女性がのぞき込んでいます。やはり青い制服に頭にもすっぽりと青いキャップをかぶっています。妻と次女と三女のようですが、いくら目をこらしてもどの人が妻でどの人が娘なのか区別が付かないのです。

 「おめでとう。肝臓移植が成功したのよ。」そう言ったのが妻の声だと分かりました。
 「やっぱり三女から肝臓をもらったのか。大丈夫か?」
 「大丈夫よ。ほら元気でしょう。」三女の声がしました。私は、どうしても妻と次女三女の3人を見分ける事が出来ませんでした。ただ、私は確かに生きてているらしいことが分かりました。妻と先祖に延命を祈って泣いたあの時から、いったい何日たったのか月日も場所も分かりません。

 毎日、妻や娘達が見舞いに来ました。私の意識も少しずつはっきりしてきました。妻と娘を見分けることも出来るよようになりました。
 「お願いだ。ジュースを飲みたいんだ!。のどがからからなんだ。」本当に私の口の中はからからに乾いていました。目覚めると舌が乾いて堅くなっているのです。体が強度の脱水状態になっているのでしょう。
 「まだお医者さんから、水やジュースの許可が出ていないでしょう。」
 「お金でもいい。キャシュカードでもいい。ジュースを買うから置いていってくれないか。」
 「−−−−」
 「頼むから、私の言うとおりにしてくれ!」私が、いくら言っても、水もジュースもお金も持ってきません。まだ、幻覚と現実の世界をさまよっているようでした。

 ICUは、外が見えず、時計もなく、今、朝なのか夜なのかも分かりません。とにかくのどが渇きます。看護婦さんに何回水を頼んでも持って来ません。それに、自分で立って行って、トイレに行きたいと行っても、両手がバンドでベットに縛られているようで動けません。
 「看護婦さん、お願いです。トイレに行かせて下さい。自分で行けますから。」
 「だめですよ。まだ医師の許可がありませんから。」

 実は、ICUを出て一般入院病棟へ移ってからも、冷たい水とオレンジジュースを飲みたい、そして、トイレへ行くことを何度も看護婦さんに頼みました。しかし、看護婦さんの答えは、
 「お医者さんの許可が出ていません。」の一点張りです。それで、回診の際に医師にこの事を頼んでいました。
 「ベットから立つのは無理だけど、水とジュースはいいでしょう。少し飲んでみましょう。」と言ってくれました。私は、喜んで、早速妻にオレンジジュースを買って来させました。コップにつぐのももどかしくジュースを飲もうとしました。ところが一口飲もうとすると激しくむせて飲めないのです。おまけにめちゃくちゃに甘くて飲めたものではありません。「飲む」という機能が失われてしまったのです。水分が気管へ流れて行ってしまうのです。味覚も完全におかしくなっています。何年か前、癌の知人の病室を見舞いに行ったことがありますが、その時知人は、
 「最近味覚がおかしいんだ。なんでも猛烈に甘いんだよ。」と話していたのを思い出しました。死の寸前にあるときは、味覚が狂うようです。
 「トイレへ行かせて下さい。」と言っていた私に、やっとベットから起きても良いという許可が出たのは、一般病室に移って十日以上も経ってからです。これも驚きました。ベットに腰をおろし床に足を着き立とうとした私の体は私の体は、ピノキオの体のように崩れてしまったではありませんか。「歩いてトイレまで行きたい」という願いも全く無理な事だったのです。

 平成12年11月28日午後から29日未明までの約17時間、北大病院で藤堂教授他の移植チームに生体肝移植手術を受けたのです。手術後11日目に一般病棟へ移る事になりました。しかし、私は、まだ幻覚や幻聴の中にいました。12月8日、私は移動ベットで一般病棟へ移されたのです。途中たぶん透析室で透析を受けたのではないかと思います。私は、ずっと幻覚の世界にいました。透析室から、廊下を回ってエレベーターに乗ったようです。ところが、何階かでエレベターからおろされ、廊下におかれたまま一夜を過ごす事になったではありませんか。
 「どうして、廊下に放置されるんだ。」私は、大声で叫んだようですが、誰も助けに来ません。どうして廊下に置かれるか不思議でしたが、実はこれは全くの私の幻覚で、まちがいなく、一般病棟の個室に入っていたのでした。手術11日目、まだまだ私の意識の回復は十分ではなっかったのです。

 肝臓を提供してくれた三女もすぐ近くの病室に入院していました。時々私の部屋に見舞いに来てくれていました。娘の胸や腹にも私と同じ大きな傷跡が残っているのだろうか。家族から肝臓の提供を受けるらしいということは、札幌の病院に運ばれた時点で知らされていました。しかし、妻、次女、三女が検査を受けているということだけでしたが、混乱した頭の中で年齢の一番若い三女清美から提供を受けるのではないかとなんとなく予測出来ました。まだ、未婚の三女の体に大きな傷を残し、命にかかわるリスクのある生体肝移植をさせるなど精神の正常な時は、とても受けることは出来なかったでしょう。結果、結局三女と付き合っていたボーイフレンドもこの手術後に去って行きました。ボーイフレンドは、娘の肝臓提供に大反対だったということでしたが、それは、きわめて当然のことでしょう。

(2)入院生活

 平成12年12月8日、ICUから病棟へ移った私は、まだ5〜6本の点滴のパイプにつながれていました。腹部には、3本ものチューブが入っていました。傷口にはまだホッチキスの針のような金属が残っていました。まだ身動きさえできず、体位を変えたい時や、だんだんずり落ちてベットの下の方に体が行ってしまった時は、看護婦さんに引っ張ってもらわなければなりませんでした。もちろんトイレも行けません。体のあらゆる筋肉は衰え、介護なしには全く動けないのです。レントゲン写真も移動してくる簡易のレントゲンで寝たまま受けていました。

 投薬は、ICUでの11日間はすべて点滴やチューブで静脈や胃に入れられていました。一般病室に移り口からの投薬を試みましたが、まだ水が飲めないことや味覚が極端に敏感でとても飲み込むことができず、しばらく点滴の中に入れられたようです。胃へのチューブは、鼻から入れていますが、これがとてもつらいものです。札幌の病院に搬送され、この胃へのチューブを入れたのですが、どういう訳か私の場合気管に入ってしまうようで医師が何時間もかけて食道へのチューブ挿入にがんばってくれました。このチューブ挿入はとても苦しいものですが、栄養や投薬のために絶対必要なようで、医師は汗だくで何時間も挿入をトライしていました。意識も薄らいでいく中で、医師のがんばっている姿に感動していました。
「先生、今日はあきらめて下さい。」と私が言うと、医師は、
「後一回やらせて下さい。!」と言うのです。そして、チューブに注射器で空気を入れて、押してみると圧力で食道に入ったか気管に入ったかが分かるのだそうです。
 この胃へのチューブが取られたのは、移植手術後10日位だったと思いますが、チューブを抜いた後の気持ちの良さは、本当に生きていて良かったと思いました。尿のチューブを取ったのは、もっと後だったと思います。チューブなし、自分の意志で小用をたすのもまた本当に気持ちの良いものです。お腹に入れていた胆汁などを出すチューブはかなり遅くまで、たぶん手術後50日くらいでやっと抜いたと思います。これで、体が自由になってきました。
 しかし、ベットから離れ、病室内を歩く事はなかなか出来ませんでした。ベットに腰を下ろし、床に足を付いて立ち上がろうとすると、まるで、糸くずのように体が崩れてしまうのです。妻や看護婦さんに介助され、車いすに移り洗面が出来るまでには、いろいろなチューブを抜いた手術後50日を過ぎていたと思います。
 車いすで、病棟内を自由に移動できるようになりました。看護婦さんからは、
「原さん、車いすを上手に乗れますね。」と言われましたが、当然です。なんせ病弱や肢体不自由養護学校に15年も勤務していて、新任の職員さんに「車いすの乗り方と介助の留意点」などを教えていたんです。
 
 「意識がほぼ回復した」と言っても、自分が思っているだけでに過ぎないかもしれません。手術後約25日ほど過ぎた、平成12年12月25日、北大病院でクリスマス、そして正月を迎える事になりました。さすがに重い患者さんの多い北大病院第一外科の病棟では、外泊出来る人は少ないようでした。第一外科には留学生の医師が来ていて、時々移植医師団と回診に回っているタイ人がいました。私は、懐かしくて、
「サワデー カップ」と声をかけると、タイ人医師も驚いて、それから挨拶を交わすようになりました。最初は、どうしてもタイ語が思い出せないでいましたが、少しずとタイ語や英語で会話ができるようになりました。12月28日に、彼は帰国するということで、わざわざ私の部屋に別れの挨拶に来てくれました。私は、タイ語で「新年おめでとう。」は、どういうのであったか、なかなか思い出せず困ってしまいました。10分ほど話しているうちにやっと思い出しました。
「サワディー ピー マイ! そうだ ピー(年) マイ(新しい)だ。」大事なタイ語を思い出すのに時間がかかります。やっぱり私の頭は、まだまだ正常になっていなかったのです。

 12月31日、病院でも大晦日がやって来ました。妻は、そして、すでに退院していた清美、妻の兄がそれぞれ正月用品を持って病室に集まってくれました。病院の夕食は、大晦日の特別メニューで、3段重ねの重箱におせち料理が届きました。限られた予算の中で、調理のスタッフの皆さんが工夫して下さったのでしょう。私たちは、病院の特別メニューそしてみんなが持ち寄ってくれた料理でささやかかな歳取りの夜を過ごしました。みんな私の生還を心から祝福してくれたのです。本当に奇跡です。私が生きていることを私自身が信じられないのです。この冬は、特別に寒い冬で、外は零下10度になっていました。

(2)妻の生活 

 平成12年11月13日、私が北海道警察のヘリコプターで八雲から札幌に搬送され、妻は、私の後を追い列車で札幌に到着、以後、病院の近くのホテルを転々としていました。「北海道難病センター」などの1泊2,000円とういうような安い宿は、連泊が出来なかったり、混んで予約が取れないのです。仕方なく安いホテルに泊まり、外食をすると1日1万円に近くなるのです。また、私の移植手術が決まっても成功するかどうか、退院の見通しなどまったく立たなかったものですから、月極の部屋を契約することも出来なっかったのです。経費はかかる一方でした。しかし、12月に入って、私の手術の成功が確認でき、近い将来の退院も可能な状態になりました。娘達と北大病院の近くの学生用のワンルームマンションを探し回り、やっと仮の住まいとすることが出来ました。八雲の我が家には、猫2匹や植物などのことがあり、心配でしたがどうすることも出来ません。幸い知人が、毎日猫にえさを与えてくれ、植物の世話、除雪などをお世話頂きました。本当に、知人のありがたさに感謝しました。
 平成13年に北大校内に、入院患者の家族向け宿泊施設ができたそうですが、これは本当にありがたい事です。
 妻は、そのワンルームマンションから、私の病室に通い続けました。よく気丈夫に私や娘達を励まし続けてくれたものと感謝しています。35年前、結婚に当たって、夫の死にこんなに早く直面するな想像もつかなかった出来事でしょう。

(3)リハビリ開始

 平成13年1月に入って、なんとか車いすで病棟内を移動出来るまでになって来ました。藤堂教授は、回診のたびに、
「原さん、動きなさいよ。動かないとだめなんだ。」と言っていかれました。そして、ある日、藤堂教授は、
「来週からリハビリを開始しよう。」と言って、リハビリの開始を宣言されました。やっとベットから起きて車いすに移れる程度であった私は、果たしてリハビリなど出来るのか不安でした。しかし、予定のとおりリハビリは始まり、訓練室から訓練士の先生がやって来て、リハビリがスタートしました。はじめは、ベットの上で足を動かす訓練から始まりました。そして、次の週からは訓練室で歩行の訓練が始まりました。車いすから平行棒につかまり、一歩二歩と足をすすめます。歩けるではありませんか。確かに体はふらつき時々平行棒に捕まらなければなりませんが、10m位の歩行が出来たのです。私は、夢のように思いました。夢ならさめてほしくないと願いました。
 訓練は、毎日続きました。歩行器を使っての訓練室内の訓練は、20m位の室内を5〜10往復します。つい先日まで、糸くずのように倒れていた体に力が入り歩いているのです。そして、とうとう歩行器なしで訓練室内を歩行出来るまでになりました。
「病院内を歩いてみましょう。」訓練士の先生の言葉に、私は、感激しました。訓練室から廊下に出て、歩き始めました。もちろん訓練士の先生が付き添っての事です。廊下の中心を歩こうと思っても、体が左右に振れます。膝が震えます。ほんの200m程を15分近くかけてゆっくり歩きました。私は、二度と自力で歩けないと信じていました。これから一生車いすの生活が続くだろうと覚悟をしていたのです。ですから、車いすに乗って移動出来るようになってすぐ、病院に出入りしている医療機器販売店のセールスさんに車いすを1台注文しておきました。病棟の婦長さんがそれを聞きつけて、
「原さん、絶対歩けるようになります。車いすなんて買わなくていいんですよ。」と私の注文をキャンセルしてくれました。でも、私には、自力で歩けるようになるなんてとても信じられない思いでした。
 それが、今、病院の廊下を歩いているのです。階段も一歩一歩全身に力を込めながら歩けるようになりました。病院のほんの20段ほどの階段が、まるで山に登るように力を振り絞らなければ、足は上がりません。しかし、体力は確実について来ていることが実感できました。筋肉の衰えはひどいものでした。ねがえりも体位をずらす力もなくなっていました。足のふくらはぎの筋肉もすっかりなくなり、皮がだぶついていました。ジュースやコーラの缶のリングプルも指の力がなくなり妻に開けてもらわなければなりませんでした。
 ところが手術後約80日の平成13年2月に入ると、自由に寝返りも出来、ゆっくりですが病棟内を歩けるまでになってきました。全く信じられないことです。二月のはじめ個室から6人部屋に移ることになりました。六人部屋は他の人に気を使うなど煩わしいこともありますが、いろいろな情報収集の場にもなります。先に書きましたが、となりのベットの人から聞いた「特定疾患の指定」など、大事な情報が飛び交っているのです。
 同室者には、肝臓移植の患者さんもおられましたが、肝臓移植者でも様々な病気が原因で肝臓疾患になっているようです。また移植後の経過もずいぶん違います。私は11日でICUを出ましたが、3日で出た人もいるそうです。では、三日で出た人の予後がすばらしく良いかというとそうでない場合もあります。ICUは早く出れたが、胆汁などの流れが悪く再手術を受けた方、中には5回も手術を受けた方もいたそうです。

 2月の中旬、藤堂教授の回診の際、
 「原さん、後はリハビリだけです。今月末で退院です。」と告げられました。
 「退院していいんですか?」昨年10月に死の宣告を受け、私はもちろん家族も知人も死を覚悟したのです。その私が退院できるなんて信じがたい事です。肝臓を提供してくれた三女清美や家族に感謝の気持ちでいっぱいでした。


7 自由になった日

(1)退院決定です
 妻が昨年末から借りていた、病院近くのワンルームマンションに移りました。病院からわずか500mほどのところですが、真冬で路面はアイスバーンでフラフラやっと歩いている私には危険なのでタクシーでの退院です。久しぶりにタクシーの窓からみる街は懐かしく、「生還出来た!」という思いで胸がいっぱいになりました。マンションの部屋は九階でしたが、何とも小さな部屋です。四畳半位にトイレ、洗面所のついたユニットバス、そして台所、奥の部屋が6畳です。六畳の部屋には布団が敷いてあり、私はすぐに妻の介助を受けながら、床につきました。部屋には小さなテレビが1台あるだけです。夜は、妻の布団を私の横に敷くと、もう部屋は一杯です。まだ、退院したという実感がなかなかつきません。私は、悪夢のような幻覚の世界から抜け出せたのです。北大病院に通って治療を続けるこなりました。妻は、私に、
「一番先になにをしたい?」と訪ねました。
「風呂かな。病院の風呂もよかったけれど、やっぱり一人でゆっくり入りたいな。」
 風呂は、ずいぶん長い間入れませんでした。平成12年9月18日、意識障害で八雲総合病院に緊急入院してから、移植手術が終わり、さらに一般病棟に移って一ヶ月くらいたった、つまり、90日近く経ってやっとお風呂に入れたのです。看護婦さんと妻が介助をして、ベットのまま入れるというお風呂でした。いくらお湯をとりかえても、垢が湯船の全面に浮かぶほどの有様でした。この時、お風呂はなんて気持ちの良いものだと思いました。その思いが、退院して一番先にしたこととして、脳裏に焼き付いていたのでした。
 ワンルームマンションのユニットバスは、超小型で、身長180cmの私が入ると、洗濯たらいのように小さく、体がはみ出ましたが、やっぱり風呂は最高です。
 最初の食事は、夕食で、小さな台所で妻が調理した簡単な料理も最高のごちそうになりました。八雲総合病院、札幌医大、北大病院といずれの食事も良く工夫され、手がかかったものが出されていました。しかし、保温庫で運んで来たとはいえ、あたたかくはあっても家庭料理のように熱くはありません。以前勤務していた養護学校の昼食は、施設で調理して学校に運ばれていたため、給食の時にはすっかり冷えてしまっていました。
「保温庫があったら」と思いましたが、100食分の移動保温庫は、300万円もしますので、とても学校予算では買えないものでした。各病院で食事は、ほとんど高価なその保温庫で運ばれて来ていましたが、今調理したばかりのみそ汁、焼きたての魚にはかないません。私と妻は、新聞紙のテーブルに夕食をならべこの幸せな時間を満喫しました。
 退院二日目は、私の趣味のアマチュア無線機器の販売店「ハムショップ」に出かけました。わずかマンションから100mほどの距離にあるのですが、歩いて10分以上もかかりました。何度もお見舞いに来てくれていたハムショップの社長さんも私の退院を喜んでくれました。
「死の宣告を受けた私が、お店まで出かけられたなんて全く信じられない事です。」という私に、社長さんも、
「本当です。良かったですね。」と喜んでくれています。
「よし、あのマンションのベランダから電波を出します。」私は、再び世界のハム仲間と交信する事を夢見たのでした。そして、雪が融け始めた三月のある日、ついに私はこのマンションのベランダに小さなアンテナを上げ、電波を出すことが出来たのです。

(2)通 院

 通院は、退院後しばらくは一週間に一回でした。一回目の通院は平成13年3月9日、たしか最初の通院はタクシ−で出かけたと思います。一見して病人と分かったのかタクシーの運転手さんは親切にわずか500mほどを走ってくれました。血液検査、そして、診察です。待合室には多くの移植患者が通院しています。病棟で入院していたなじみの顔もちらほらあります。この待合室がまた情報交換の良い場となっていました。私のように最近退院してきた者は、顔色も悪く、椅子に寝そべっていたりして、まだまだ回復していない事がすぐ分かります。私は、まだ話をする気力もなくて、隅の方に座って診察の順番を待っていましたが、妻は皆さんといろいろ話をして情報を得ていました。すでに移植手術をして三年を経過されている方も来ており、そういう先輩から妻はいろいろアドバイスを受けています。
 待っていると私の名前が呼ばれました。私の主治医の古川教授が診察しくれました。退院後第一回目の検診ということで、私はその結果に緊張していました。待っている時の先輩患者さんの話では、何回も入退院を繰り返している人もいるようなのです。
 「いいですよ。順調です。」血液データーに目を通していた古川教授は私に説明してくれました。
 「先生、八雲まで汽車で出かけていいでしょうか?特急で二時間くらいんですが。」
 「いいでしょう。」
 「そうですか!行ってみます。」八雲の自宅には、猫たちが待っています。知人のお世話で、餌や暖房には不自由することなく過ごしていますが、きっと私たちがいないことで不安だと思います。
 「なにかあった時はすぐ電話連絡を下さい。」古川教授のお墨付きをいただいて、退院して十日目の3月10日に札幌から200Km離れた八雲町の自宅へ一泊二日の帰省が実現することになりました。三月十日、朝の特急列車で八雲へ向かいました。
 「八雲の町に帰れたんだ。」道南の小さな町八雲町へ着きました。懐かしい八雲の町並みをタクシーからながめ生きていることを実感しました。八雲に帰ってこれるなんて私も妻も全く信じられないことです。住宅も見えてきました。玄関の雪はきれいにかいてあります。知人が毎日通ってお世話をいただいたお陰です。ドアの鍵を開けるともう二匹の猫は、感づいて飛び出して来ました。猫たちにまで何ヶ月も寂しい思いをさせていたのです。知人の世話で室内の草木もみんな青々として元気です。
 「今夜は、風呂にしよう。」ワンルームのユニットバスに比べ三倍もある我が家のお風呂にお湯を注ぎ込みました。
 たった一泊でしたが、また札幌にもどりました。日ごとに体力が回復しているのがわかります。体重も退院した時は52kgでしたが一日100gぐらいの割合で増加していました。食事もなんでもおいしく感じ、時々ごはんのお代わりをすることもありました。ただ、歩く事はなかなか大変で、500m位の歩行が最大で、とても疲れるのです。マンションから札幌駅までも500mほどですが、行きは歩き、帰りはタクシーに乗りました。歩くよりは、立っていることがとても苦痛でした。信号待ちでほんの二分くらい立っているのが大変なのです。

 3月23日、背中がかゆくなり妻にみてもらうと少し赤く腫れているとのこと。あわてて北大病院に電話をかけ診察してもらいました。
 「たぶんヘルペスでしょう。」皮膚科に観てもらいましょう。移植チームの嶋村先生の見立てでした。皮膚科でみてもらうとやはり「ヘルペス」ということで、内服薬と塗り薬をもらいました。

 3月30日、三回目の定期検診で北大病院へでかけました。もう往復歩いての通院です。幸いヘルペスも治まっていました。血液検査の結果は良好とのことで、次回は三週後に検診をなりました。退院1ヶ月で週一回の検診から三週に一回の検診で良いとのことに、私と妻はホット胸をなで下ろしました。待合いでの先輩の患者さんの中には、再入院や定期検診の期間が長くならない人もいたからです。

 四月上旬妻が八雲の自宅に車を取りに行って戻って来ました。車のお陰で、私たちの行動範囲も広がりました。平成13年4月4日、ヘリコプターで最初に運ばれ延命治療を受けた札幌の病院へ出かけることにしました。外来で診察されていた主治医の先生に私たちの訪問を告げますと、快く会って下さいまた。
「原さん。元気になってよっかった。亡くなるなるのが常識という状態だったんですよ。」
「ICUの看護婦さん達も喜んでくれると思います。ICUに行きましょう。」主治医の先生に案内され私がお世話になっていたICUに連れて行っていただきました。そこは、私の思っていたよりずいぶん広くて明るかったので驚きました。私の記憶では、とても狭く、暗い部屋だったはずでした。たぶん私の視野が極端に狭くなり視力も落ちていたために見えていたのは部屋の一部だったのでしょう。看護婦さん達も覚えていてくれてとても喜んでくれました。
 この病院のICUの記憶は、幻覚と幻聴ばかりでした。このベットでわめきちらしていたのです。なにせ、私はこの病院に来たとき、舞台は北朝鮮で拉致され、ベットに縛り付けられ、青酸ガスを吸わされて殺されかけていたのです。

(3)2泊3日で東京に

  私は趣味の団体、社団法人日本アマチュア無線連盟に所属しています。子供の頃からいわゆる「ラジオ少年」であった私は、十五歳の時アマチュア無線の資格を取り、その後休むことなくアマチュア無線を楽しんでいました。平成2年からこの社団法人日本アマチュア無線連盟の理事をしていました。会員約十万人の会員のこの法人は、我が国を代表するアマチュア無線の組織です。この組織を十七人の理事で運営しています。私もその一人で、入院のために平成12年8月の理事会を最後に欠席していたのです。
 定期検診で主治医の古川教授に東京に行きたいことを相談すると、
「問題ないでしょう。」というありがたい言葉に、私の無線連盟の理事会の参加や秋葉原電気街の散策が実現することになりました。妻は、私の東京行きを心配していました。とうとう妻同伴で東京に行へ行くことになりました。
 平成13年4月27日、私たちは千歳空港から羽田空港へ飛び立ちました。この日のフライトは、まるで初めての海外旅行のように心が躍りました。この日は疲れを心配して、まっすぐホテルに入りました。
 翌日、4月28日は、社団法人日本アマチュア無線連盟の理事会が開催され、八ヶ月ぶりに私も出席できました。他の理事さんは、私の奇跡のカンバックに喜んでくれました。役員会の中では、私の後任の補欠選挙なども検討されていたところだということでした。妻は、妻の趣味の絵画の展覧会を見学に上野の美術館に向かいました。この一年、妻は、好きだった油絵の筆を持つ精神的ゆとりもなく、私の看病に終始してしたのです。
  4月29日、私と妻は秋葉原の電気街の騒音の中にいました。30年も通い続けた秋葉原の人混みや売り子さん達の呼び込みの声は、「秋葉原に来たんだ。」という実感を感じました。あの死の世界から今私は秋葉原の地を踏んでいるのです。札幌では、500mも歩くのも大変だった私が、一時間近くも電気店街を散策しました。秋葉原は、年に十回近く、時間があれば二日でも三日でも通い続けていました。無線機やパソコンのパーツなどの買い物もありますが、新製品や中古品、ジャンクと呼ばれれる「掘り出し物」など、私の趣味の世界の物があふれているのです。
 この二泊三日の東京行きは、私に大いに自信をつけました。肝臓移植手術120日目の快挙でした。

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(7)家探し

 札幌の北大病院の定期検診が一生続くことが分かりました。今まで自分の人生設計として、「退職後は、自然の豊かな地方で」という考えも無理なようです。平成13年5月10日、幸い札幌市内にある教員住宅に空きがあり、北大前のワンルームマンションから2LDKのアパートに移ることが出来ました。病気のために札幌に住まなければならなくなった事が決定的になりました。そこで思い切って札幌市内で家を購入すること計画しました。1年間、自宅療養が続く中、今しか時間が取れないという思いもありました。早速住宅情報誌を毎月買って家探しを開始しました。妻の運転で売り家とかマンションの部屋をみて歩きました。北大病院の移植チームの先生方からは、なんども「体のために体を動かすよように」と指導を受けていましたが、この家探しがちょうどよい運動であったと思います。
 さて、実際に住宅情報誌や新聞折り込みをみて、売り家や売りマンションをみて歩くと、実に様々な間取りや作りがあることが分かりました。家だけでなく近くの環境、道路の幅などいろいろな大事な選択の要素がある事が分かりました。また、長年生活を共にしてきた妻との考えに大きな開きがあることも分かりました。大きな違いは、無精な私の「マンション派」と一坪でも庭のある「一軒家」を選びたいということがありました。そんなわけで、「マンション」VS「一軒家」の調整にしばらくの時間がかかりました。新築住宅、中古住宅、これから着工するマンションなど実に100件に近い物件をみることが出来ました。これは、仕事を休んでいたから出来たことなのでしょう。
 九月末、やっと二人の気に入った(お互いが妥協できた?)建て売り住宅を決める事が出来ました。手付け金を入れ、今夜契約書を交わすという朝の事です。私は、習慣になっていた新聞折り込みに目を通していました。妻は、
「もう決めたんでしょう!」とあきれ顔でみていました。
「まあ、そう言わずもう一軒みようよ。おもしろい家が売りに出ているんだ。」その家は、玄関が向かい合った二世帯住宅で、価格的にはとても私の乏しい資金では買えない価格が設定してありました。しかし、作りや間取りがとてもおもしろそうなのです。あまり気乗りのしない妻に車を運転させて、その中古住宅に着きました。まず環境をみます。道路幅十二メートル位、歩道も道路両側にあり、付近の家も立派な住宅ばかりです。交通量もメイン道路から一本中に入っているため少なくて静かです。200m位のところに大型スパーがあります。ずっと記憶をたどりますと何度かこの住宅、そして、この通りの立派な住宅に見覚えがあります。妻と、「ここもなかなかいい住宅街だな。」と車からながめたことがありました。
 早速、オープンハウスとなっているこの売り家に入ってみました。居間の吹き抜けに白い手すりの階段がのび、なかなかいい感じではありませんか。二階を一回りして、向かいの家もみせてもらました。
「いいぞ!ここならいい。」私の言葉に妻も真剣になってきました。100件近くの家をみて初めて二人の意見がすんなり一致しました。これまでは、一長一短で、二人の意見はまとまりませんでした。今夜契約する建て売り住宅も、すっきりしないところがありました。しかし、もうすぐ冬がやって来て、家探しの限界が来ていたのです。
 「いい家だ。だがこの二世帯住宅は私の支払い能力を超えているぞ。」二世帯住宅で割安にはなっているのですが、やっぱり一軒家より値が張るのです。
 「うーん。あんたの姉さん達が一緒に買ってくれるとな−−−。」と私は、勝手に妻の姉たちを引き合いにだしました。すると、妻も相当この家が気にいったようで、
 「すぐお姉さん達に電話してみましょう。!」とこれまでにない積極的な発言です。私も驚いて、
 「あの町で生まれて育って65年だぞ。札幌に来てくれるかな?」私は、半信半疑で、携帯電話ですぐ姉と話してみることにしました。
 ところが、話しの進むときは進むもので、午後にこの売り物件を見に来た姉は、
 「買った!買います。」ということになったのです。今夜、建て売り住宅の契約をするというほんの二時間前ほどの出来事です。今夜契約予定の家に関しては、もう正直に「姉と住むことになったので」とセールスさんにわびの電話を入れました。セールスさんもあっけにとられていました。
 
 こんな突然の話で、この中古住宅を買うことになりました。さて、そうなると資金調達です。すっかり私の病気でお金を使ったばかりです。
「半分は、住宅ローンだな。」と私は借りることを安易に考えていました。ところが、30年以上も付き合っていたM信託銀行は、移植手術を理由にローンは組めないとの回答ではありませんか。即日小さな抵抗ですが、M信託銀行の預金を全額引き下ろしました。移植患者への差別を初めて体験しました。
 幸い、H銀行では簡単にローンが認められ、この住宅を購入することが出来ました。そして念願のマイホームへ平成13年10月30日に移ることが出来ました。
 住宅購入で、先に買われた皆さんの体験を伺うと、
 「決まるときは、すぐ決まるものですよ。」という話はよく聞いていましたが、本当でした。やはり、物事には縁というものがあるのでしょう。

8 泣いた校長先生
 

(1) 泣いた校長
 平成14年2月、元の職場の事務部から北海道教育委員会への復職願いの書類一式が届きました。待ちに待った復職の時が来たのです。定期検診で、北大医学部の古川先生に診断書の作成をお願いしました。
 「先生、復職出来るでしょうか?」
 「大丈夫です。なんの問題もありません。」古川先生の言葉に多少の不安を感じながら、合わせてCT、エコーなどの写真も添付するよう指示がありましたので、これらもお願いしました。程なく診断書とフイルムが出来、早速元の職場まで発送しました。私は、平成12年12月18日付け北海道教育委員会へ提出した「休職届け」が受理され、ありがたいことに約8割の給与を受け最大二年間療養出来ることになっていました。時間的には14年12月17日までまだ十ヶ月ほど猶予があるのですが、職場を離れて1年を過ぎた頃から復職の願いは一層強くなっていました。

 2月、3月と月日はどんどん過ぎて行きましたが、北海道教育委員会からはなんの連絡も入りません。北海道教育委員会の教職員課では、道立の約300の高校と特殊学校、そして市町村立の学校のとの人事交流など莫大な作業をしています。問い合わせも迷惑と思い、問い合わせにかけた電話の受話器を上げたり下げたりしていました。
 「内示は3月14日らしい」という同僚の話が入って来ましたのでじっとその日を待つことにしました。ところが、その日になっても内示の電話が入ってきません。
 「こりゃあ復職は無理と言うことかな。」とあきらめかけていると、何かの都合で内示日が一週間のびたらしいとう情報が入ってきました。
「吉報は寝てまてかな。」とはいうものの復職審査に不合格になったのではという不安がだんだん大きくなって来ました。まだ移植医療は、ごく限られた医師しか理解がありません。北海道教育委員会の復職を審査する嘱託医師が、移植者の復職を認める保証はないのです。そんな心配をしながら、電話のベルがなる度に、緊張したものでした。長い一週間が過ぎました。夕方、電話のベルがなりました。
 「北海道教育委員会教職員課です。内示です。札幌盲学校長をお願いします。」
 「復職出来たんですか!」そばで聞いていた妻も無事復職できた事が分かったようで、私が電話の内容を話す前に、小躍りして喜んでいます。本当に妻には、この二年間心配をさせ、そのためか妻の髪もめっきり白いものが多くなっていました。
 「ありがとう! 復職出来たぞ。学校は札幌盲学校。道教委も私の健康を配慮して病院の近くにしてくれたんだ。」ほんとうにありがたいことです。
 「さあ、これからノーアルコールビールで乾杯だ!」その夜は、長かった闘病生活を妻と少々気の抜けたビールのようなノーアルコールビールを片手に語りあいました。0.9パーセントのアルコールに酔ったのか、その夜は、久しぶりにぐっすり眠ることができました。

 4月1日、私は初出勤で、二年ぶりに袖を通す背広に緊張しました。私が九年前に同校に勤務していた時の職員も何人か残っておられ、懐かしく会うことができました。早速新年度の計画の打合せが続き、初出勤はさすがに疲れ、夕食をすませ、免疫抑制剤を飲む八時まで眠い目をこすりながら起きているのがやっとでした。
 
 平成14年4月8日、入学式の日を迎えました。体育館には、40名ほどの生徒さん、保護者の皆さん、50人の職員が一同に会していました。
 「只今から、平成十四年度北海道札幌盲学校入学式を始めます。」
 「校歌斉唱」教頭先生の進行で懐かしい札幌盲学校の校歌を全員で歌いました。校歌がほんの一小節ほど進んだとき、私は長かった闘病生活を思い出していました。先祖に手を合わせ、
「どうか明日一日生かして下さい。」と祈って意識を失って、三女から肝臓をもらいICUで気がついたこと、そして、二度と生徒さんの前に立てないと覚悟をしたこと、この二年間にあった出来事が次々と思い出されました。校歌が進むにつれ、私の目からは感激の涙があふれ出ました。校歌は一番から二番、三番へと進みました。
 「校長式辞」教頭先生の司会で演題へむかいましが、私の涙は一向に止まりません。ハンカチで眼を拭いても拭いても涙があふれ用意した式辞を読むことが出来ないのです。
 「みなさん!泣いた校長先生なんてみたことないね。」私は、生徒さんに話しかけました。生徒さんも保護者の皆さんも、そして職員も泣いている私をみてあっけにとられて会場は「シーン」と水をうったようになってしまいました。
 「私は、大きな病気をして、学校を休んでいました。もう二度と皆さんの前に立ってお話を出来るなんて思っていませんでした。皆さんも障害を持っていますが、障害に負けないでがんばって勉強しましょう。」 私は、まったく原稿にないことを話してしまいました。感激の涙をハンカチでふきながらやっと用意した式辞を読むことが出来ました。二年間の闘病生活を終えて復職までこぎ着けられたました。家族や職場の皆さん、そして、心配して下さった多くの皆さんに心より御礼申し上げます。

 ありがとう。お父さんは生き返ったんだ! 

お父さんへ

こちらこそありがとう!!^^

Specail thanks to every Dr.,every artists,American family,my real japanese family and best friends!!

Love, Kiyo^^!!+++


リンク  データーが一杯の糸田さんの肝移植体験記です。是非ご覧下さい    http://www15.ocn.ne.jp/~itoda/index.html


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